※2016-6-21(19:42)追記
東日本大震災の被災者を支援すべく来日してくれた海外各国からの救援隊。
その中に、イスラエル軍の軍医、薬剤将校、看護兵ら50人で編成された緊急医療部隊の姿がありました。
部隊は3月28日から宮城県栗原市を拠点に南三陸町で活動を開始。
志願したという軍医は
「編成できる最高のメンバーで来日した。日本人被災者の役に立ちたい」。
イスラエル大使館の職員も
「お手伝いできることがうれしいし、日本の文化に触れることはとても興味深い。医療チームにとっても特別な体験です」という。
将兵らは放射線量測定器を装備するなど、万全な態勢で支援活動を長期に亘って展開。
4月10日に帰国の途に着きました。
思えば、日本とイスラエルには浅からぬ縁があります。
恐らくユダヤ人迫害では過去最大規模であったであろうナチスによるホロコーストの嵐が吹き荒れた60余年前。
弾圧と虐殺の恐怖を前に、ヨーロッパを脱出しようとしたユダヤ人と関わりを持った日本人がいました。
一人は、赴任先のリトアニアで、
もう一人は、旧満州に逃れてきた2万人(※2)ものユダヤ人に手を差し伸べた第5方面軍兼北部軍管区司令官・樋口季一郎中将(1888~1970年)。
※1 1938年12月には「ユダヤ人排斥は我が国が(パリ講和会議以来)主張してきた人種平等の原則に反する」故「ユダヤ人を排撃することなく他の外国人と同等に扱う」との方針を大日本帝國政府は決定していた。日本外務省外交史料館でも、ウィーン、ハンブルク、ストックホルムなど欧州12箇所の日本領事館で数百件のビザが本国外務省の許可を得た上でユダヤ難民に発行された記録が近年発見されている。また、辿り着いた日本ですんなり入国が許可された事を「日本の入国管理官は通過ビザのチェックに意外なほど寛大だった」と『杉原ビザ』リスト17番イサック・レビン氏らが証言。
※2 実際に救助されたのは記録写真に写る18人だけだったとの説。樋口本人が自ら手を差し伸べた"写真に残る最初の18人"を皮切りに、満州経由の脱出ルートとして多くのユダヤ人がそれに続いた結果、その人数が"2万人"規模になったのではないかとする、早坂隆氏の"ヒグチルート"説。樋口の手記「彼ら(=ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトボールに詰めかけ、入満を希望した」という部分で、何故か芙蓉書房では"何千人か"が"2万人"となっている事から出た数字だとする説。等々諸説ある。
1938年3月。
満州国境沿いにあるソ連領オトポール駅には、ナチス・ドイツの迫害からシベリア鉄道で逃がれてきた数千から2万人ものユダヤ人が集まっていた。
彼らは満州国経由で上海を目指すつもりだったが、満州国外務省が入国に難色を示した為、吹雪の中で足止めされていた。
食料は底を突き、厳しい寒さも加わり凍死者が出始めた。
当時、少将だった樋口はハルビン特務機関長として対ソ諜報活動を指揮していた。
極東ユダヤ人協会会長アブラハム・カウフマンの懇願に、樋口は満州国外務省や満州鉄道に強く働きかけ、通過査証(ビザ)発給や特別列車運行などを実現させた。
南満州鉄道総裁・松岡洋右の要請を受けた特別列車がハルビン駅に着くと、凍傷患者ら病人を除く全員を施設に収容、炊き出し・衣類配給を実施した。
結果、ユダヤ人の8割は大連から上海経由で渡米。残りは開拓農民としてハルビン郊外に入植した。
樋口は部下に命じ、開拓農民希望者に土地・家を世話するなど、最後まで面倒をみた。
しかし、樋口のこれらの行動は越権行為である。
その上、日独防共協定(※1936年締結)を結ぶアドルフ・ヒトラーを首魁とするドイツの顔色を気にして満州国が入国を渋った事から見て、樋口に累が及ぶ可能性は極めて高かった。
実際、ドイツ外務省は駐日大使を通じて以下のような抗議文書を送付してきた。
《『某将軍』は独国策を批判するのみならず、国家およびヒトラー総統の計画と理想を妨害したのである。
将軍への速やかなる対処を希望する》
樋口は帝國陸軍・関東軍司令部から出頭命令を受ける。
後に首相・大将となる関東軍参謀長の東条英機中将に対し、こう弁明した。
《仮に独国策が、オトポールにおいてユダヤ民族を進退両難に陥れることにあったとすれば、恐るべき人道上の敵とも言うべき国策ではないか。
また、日満両国が、かかる非人道的な独国策に協力するならばこれもまた、驚くべき軽侮であり、人倫の道に背く。
本官は日独親善・友好は希望するが、日本はドイツの属国ではない》
樋口のユダヤ人差別に対する悲憤は、ベルリン駐在時代に遡る。
東洋人故に下宿先を断られ、ユダヤ人だけが受け入れてくれたという原体験があった。(※ウラジオストク赴任時にユダヤ人富豪の世話になったからとの説も有り)
樋口の訴えを聞いた東条は、軍中央に不問とするよう具申した。
ユダヤ人脈を通じた対米関係修復を意図していた(※日露戦争の戦費調達用国債を引き受けたヤコブ・シフの親類を妻に持つハル国務長官、ユダヤ系リトアニア移民の子ハリー・ ホワイト財務次官補、ハル・ノートの原案「ホワイト・モーゲンソー試案」を共に提出したモーゲンソー財務長官らユダヤ系高官の態度軟化を期待)、或いは世界中にネットワークを持つ莫大なユダヤ資本を満州国に誘致して経済振興を図ろうとした(※通称『河豚作戦』)など、隠された狙いを指摘する説もある。
いずれにしても、降格の懸念もあった樋口は、むしろ昇進のため内地に召還される。
その出立にはユダヤ人開拓農民ら2千人近い見送りであふれ「ゼネラル・ヒグチ」の連呼が起きたともいう。
連合国と日本の停戦が成立した筈の1945年8月中旬。
ソ連軍は日ソ不可侵条約を破棄すると北千島・南樺太に奇襲攻撃をかけた。
その時、北東太平洋陸軍の武装解除を指揮していたのが樋口だった。
彼は独断で隷下の諸部隊に急遽再武装させ、ソ連軍を返り討ちにした。(※占守島の戦い)
終戦後、ソ連極東軍司令部は樋口を「戦犯」指名し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に引き渡しを要求した。
これに対し、樋口に一命を救われニューヨークに逃げ延びていたユダヤ人を中心に、世界のユダヤ人コミュニティが樋口救出運動を展開。(※インベーダーゲームで知られる企業『タイトー』創業者ミハエル・コーガンもその一人)
働きかけを受けた米政府とGHQは、この引き渡し要求を拒絶した。
樋口の行動は諜報と云う職務故に、詳細な記録が残っていない部分もある。
しかし、助けられた人々の記憶からは消える事はなかったといえる。
参考・引用 | サンケイエクスプレス 2011/04/10付記事
それだけに、イスラエルとの友好の影にパレスチナ問題が存在する事は、非常に複雑な思いです。
パレスチナの閉鎖地区や国外亡命した難民の支援に携わる日本のNGO等の報告に触れる度に、迫害された者が迫害する者になってしまう歪な因果に慄然としてしまいそうです。
世界中を見渡せば、離れた国とは仲良く出来ても、隣り合う国とは何かと利害が衝突しがち。
トルコとの友好の影にもクルド人問題が存在するように、「敵の敵」或いは「味方の敵」とされる人々の事も、忘れてはいけないと思いました。
そして感謝と同時に、医療・情報技術の先進国であると同時に、高度な軍事技術と安全保障意識を持ち主でもあるこの国から学ぶべき事が多くあるという事も。