オスマン帝国(現・トルコ)の軍艦エルトゥールル号で親善訪日使節団が来日し、皇帝(スルタン)の親書を明治天皇に奉呈。
その帰り路、台風で荒れ狂う紀伊沖の海に587人もの乗組員と共に沈んだ。
当時の大島村(現・串本町)では流れ着いた乗組員69人を村人総出で救助。
灯台を始め寺や学校では生存者の怪我を手当てし、低体温症を人肌で温め、時化で漁が出来ず食糧不足の中で非常食用の鶏も出すなど献身的に介抱した。
あれから121年を経た2011年3月28日。
和歌山県串本町の樫野崎灯台の傍に建つエルトゥールル号遭難慰霊碑に、四人のトルコ人が献花に訪れた。
一組は、1890年に樫野沖で遭難した所を紀伊大島の島民に救助されたエルトゥールル号乗組員の孫ネビン・セレスさん(59)と曾孫エムレ・セレスさん(32)。
もう一組は、オルハン・スヨルジュさん(85)と妻のヘルガ・スヨルジュさん(73)。
オルハンさんは、1985年のイラン・イラク戦争でテヘラン空港に取り残されていた日本人を救出したトルコ航空の元機長だった。
イラン・イラク戦争時、イラク側はイラン上空の航空機に対する無差別攻撃を宣言。
日本航空のチャーター機が組合の反対で飛べなくなった中、伊藤忠のイスタンブル支店関係者や在テヘラン日本大使館からの救援要請をトルコ政府は了承。
他国のチャーター機が次々と自国民を乗せて飛び立った後、テヘラン空港に取り残されていた日本人215人を2機のトルコ航空機に乗せて脱出させた。
その第1機長を務めたのが、オルハンさんだった。
オルハンさんは「最新の情報を入れながら、どのルートを飛ぶべきか、安全面を考慮した」と当時を振り返った。
限られた時間の中で助けることが出来、トルコの国境を越えた時に『Welcome』と伝えると、機内で拍手が起きたという。
「エルトゥールル号遭難の際はトルコ人約600人が亡くなったが、航空機で日本人全員を助けられことを幸運だと思うし、恩返しができた」と話した。
到着した一行を地元住民約30人がトルコと日本の旗を持って出迎え、献花式典では両国の国歌が流され、串本町トルコ文化協会会員が追悼歌を歌った。
田嶋勝正串本町長は
「日本人を助けてくれたオルハンさんが、慰霊碑にお参りをしたいと日本に来てくれてありがたい。エ号乗組員の子孫にも会えて感激している。
両国の素晴らしい友情を後世に受け継いでいかなければとあらためて思う」と挨拶。
前の年の6月4日には、トルコ航空で脱出した日産自動車社員・沼田準一さん(68)、服部栄介さん(57)、高星輝次さん(52)の3人が、同町長に
「日本とトルコの友好の発展に使っていただければ」と「ふるさと納税」として寄付金を手渡した。
そして、120年前のエルトゥールル号の遭難で、当時の地元民らが献身的な救助活動をした事が礎となって、自分たちが無事帰国出来た感謝を伝えていた。(紀伊民報 2011/3/28、2010/6/7)
実は、この話しにはまだ続きがありました。
湾岸戦争勃発1ヶ月前の1990年12月。
当時国会議員だったアントニオ猪木が自らイラクに赴いて平和を訴えるイベントを行い、フセイン政権によってイラクからの出国を差し止められ、事実上の人質として抑留されていた在留邦人の解放を果たした時に、チャーター便を出してくれたのもトルコ航空でした。
さらに、同社では事業を拡大する予定からパイロットが今まで以上必要になっています。
その為、他国の航空会社を解雇されたパイロットなどを積極的に採用しているのですが、2010年に会社更生法を適用して事実上倒産した日本航空グループから整理解雇された700人近いパイロットからの採用にも積極的なのだそうです。(Wikipedia-トルコ航空)
何か、助けてもらってばかりで本当すみません…
1999年にトルコ大地震が発生した際、テヘランで救出された邦人の一部が義捐金を募りトルコに贈ったり、日本としてもレスキュー隊員や医師ら68人や阪神淡路大震災の仮設住宅を支援として送ったりするなど少しは恩返しが出来ました。
そして、東日本大震災の時もハイパーレスキュー隊や医療関係者ら総勢33人の救援隊(何と全員ボランティア!)を派遣してくれたトルコは、海外救援隊の中でも一番最後に帰国。
その後も、ライフラインに不自由する被災地にペットボトル飲料水を送ってくれました。(朝日新聞2011/4/)
また次は、日本から何か「恩返し」を出来れば良いなと思っています。
…っていうか、飛んでイスタンブールに観光しに行きたいです。(笑)
余談ですが…
1985年8月12日の日本航空123便墜落事故で死亡した高濱雅己機長は、テヘランの邦人脱出に派遣するチャーター機に『決死隊』として手を挙げた数少ないパイロットだったそうです。
当時の日本は社会党政権下で自衛隊への風当たりは強く、海外の在留邦人を救出しに行ける法律がありませんでした。(「居留民の保護」を名目として、列強が他国へ侵略を重ねた帝国主義時代の苦い記憶からでしょうが…)
その上、日本航空(JAL)によるチャーター機の派遣も反会社側労働組合の反対(※1)で実現せず。
2011年にムバラク政権を崩壊させたエジプト革命でも、当時カイロにいた外国人がチャーター機で脱出していく中、日本人は商社の人脈などを使って自力で国境を越えて帰国したそうです。
※1 組合の反対ではなく、中曽根政権が批判を気にして「時間切れ」になるまで指示を出さなかった説も有り。
政府を信用していたら命がいくつあっても足りないなんて…。(^^;
いつまでも、他国の好意に甘えてばかりいて大丈夫なのでしょうか。
勿論、厚意を向けてもらえるような国で在る事が一番大事だとは思いますが。