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「教訓」の意味、そして「教訓にする事」の意味

買占めで起きた首都圏の品薄。
地震が起きれば保存食や乾電池等が、浄水場の放射線検出が報じられればペットボトルの水が売り切れる。
御年七十歳になる宮崎駿監督が「僕と同じくらいの年齢の人が水を買う為に並んでいる。もってのほかだと思います」と語ったように。(朝日新聞2011/3/)
横浜市中区内のガソリンスタンドで給油の順番待ちを巡り、六十四歳の男性が相手に刃物を突きつけて脅した事件(レスポンス2011/3/19より)があったように。
今回の震災で「物の無い時代を経験してるはずの高齢者(ツイッターより)」によるトラブルが、ちらほらと見られます。
私事ながら管理人の祖母も長年、明らかに使わない物が物置に山積みなのに、防災などで明らかに必要になる物は、てんで買おうとしませんでした。(^^;
物のない戦中・戦後を骨身に染みて知っているからこそ、「備え」よりも「恐れ」が先行してしまったのかもしれません。

体験を「過去の教訓」として後世に活かすか、ただのトラウマで終わらせてしまうのか…。
あまりにも巨大な災害の前に、気持ちの整理すらつかない被災者も多いであろう中、先人が遺していった知恵と思いと街造りに救われた命がありました。

東日本巨大地震による津波で大きな被害を受けた岩手県釜石市と大船渡市で、津波に備えた知恵や工夫が奏功し、多くの子供たちの命が救われた。
釜石市では、津波から身を守る方法として三陸地方に伝わる「津波てんでんこ」が効果を発揮。
大船渡市では、学校から高台へ素早く逃げられるよう、父母らの訴えで昨年秋に完成したばかりのスロープでの脱出劇があった。

死者・行方不明者が千二百人以上に上った釜石市。
全小中学生約二千九百人のうち、地震があった三月十一日に早退や病欠をした五人の死亡が確認された。
しかし、それ以外の児童・生徒については、ほぼ全員の無事が確認された。
市は2005年から専門家を招いて子供たちへの防災教育に力を入れており、その一つが「てんでんこ」だった。
度々津波に襲われた苦い歴史から生まれた言葉で、
「津波の時は親子であっても構うな。一人ひとりが『てんでばらばら』になっても早く高台へ行け」という意味を持つ。
学期末の短縮授業で百八十四人の全校児童のうち約八割が下校していた市立釜石小。
山側を除くほとんどの学区が津波にのまれたが、児童全員が無事だった。
学校近くの住宅街で友人と遊んでいた同小六年生の藤元響希(ひびき)君は
「家族や家が心配だったけど、無意識に高い方に走って逃げた」。
その後、避難所で家族と再会できた。(読売新聞2011/3/28より)

大船渡市にある越喜来(おきらい)小学校は、海から約200mの所にあった。三階建ての校舎は津波に襲われ、押し寄せた瓦礫に覆われた。
校舎の道路側は高さ5mの崖で、その上には避難先に指定されている三陸鉄道南リアス線三陸駅がある。
しかし、従来の避難経路では、一旦一階から校舎外に出て70mの坂を登り、さらに高台を目指さなければならなかった。
「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」
2008年三月の市議会議事録に、地元の平田武市議が非常通路の設置を求める発言が記録されている。
親族によると、平田さんは数年前から
「津波が来た時に子供が一階に下りていたら間に合わない。二階から直接道に出たほうが早い」と話すようになったという。
平田さんの強い要望を受けた形で、昨年十二月に校舎二階と崖の上の道路を繋ぐ津波用の避難通路が設置された。
必要経費となった予算約四千万円がついた時、平田さんは「やっと出来るようになった」と喜び、工事を急ぐよう市に働きかけていた。
十一日の地震直後、計七十一人の児童は避難通路から崖上に出て、直ちに高台へ向かうことが出来た。その後に押し寄せた津波で通路は破壊されていた。
市教育委員会の山口清人次長は
「こんな規模の津波が来るとは想定しておらず、本当に造っておいてよかった。平田さんは子供の事を大事に考える人でした」
平田さん本人は、震災の九日前に六十五歳で亡くなっていた。
非常通路から避難した児童の中には、平田さんの三人の孫もいた。
長男の大輔さんは
「人の役に立った最後の仕事に父も満足していると思う。小学三年生の息子にも大きくなったら話してやりたい」と語った。(朝日新聞2011/3/より)

ただ一方で、過去の経験が却ってあだになってしまった例もありました。

大船渡市赤崎町の生形(おいかた)地区は、自主防災組織が避難誘導や声かけ担当者を決めるなど万全の態勢を整えていた。
しかし、約三百人の住民のうち九人の死者・行方不明者が出た。住民からは「チリ地震津波の経験があだになった」との声が上がる。
防災組織の只野富雄隊長らによると、生形地区では1960年のチリ地震津波で数人が死亡。
地区内の土地を最大で5メートルかさ上げした他、高齢世帯や歩行困難者など自力避難が難しい住民について色分けした地図を作製、訓練も重ねていた。
九人のほとんどはチリ地震津波の経験者だった。
当時は津波が民家の一階まで到達したため、一階を鉄筋コンクリートで強化した家が多かった。
誘導担当の金野星一さんは「チリ津波の経験から二階に上がれば大丈夫と考えた人もいたと思う。逃げる時間はあった」と悔やむ。(毎日新聞2011/4/2より)

今回の震災は、過去のデータも教訓も堤防もハザードマップをも遥かに超える規模でした。
これらの出来事が伝える「教訓」は、今までの「常識」に囚われず、現在の状況を見極め、自分の頭で判断する大事さではないでしょうか。
釜石東中学校の生徒たちは、津波が来たら「とにかく高い所へ」の原則を忘れず、教員の指示を待たずに避難場所をさらに高台へと変えて、合流した小学生や介護施設の高齢者を救いました。
昨年三月から釜石市は危機管理アドバイザーに群馬大学大学院から片田教授を迎え、子供たちに三つの事を伝え続けてきたそうです。
揺れたら家に向かわず、とにかく逃げる事。ハザードマップを信じず、状況を見て判断する事。そして、人を助ける事。

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