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原発が与えたもの、奪ったもの

余震がだいぶ落ち着いてきた今。誰もがもっとも気になっているのが原発でしょう。
福島第一原発の事態は、予断を許さないというか、もはや一進一退の様相。
冷却の為の放水をやっと真水に変えられたと思いきや、作業員にまたも被爆者を出し、放射能で汚染された水の排水に苦慮する事態に…。

三十二年前にスリーマイル島原発事故が起きた近郊のミドルタウンからも、福島への同情の声と「友」への祈りの灯が灯されました。
今や、スリーマイル島のレベルを超えたと云われる福島第一原発事故。
人類史上最悪とも云われるチェルノブイリを回避出来るのか…。
私達に出来る事は、被曝の危険と戦いながら作業を続ける現場を信じる事。
そして、原発に支えられていた電力、経済、生活の全てを見つめ直し、未来のエネルギーを模索する事ではないでしょうか。

そんな中、福島原発に関する印象的な出来事を二つ見つけので紹介します。(以下、朝日新聞2011/3/29より)

東電の「協力会社」社員の中には、避難先から職場に復帰しようとしている人たちがいる
その「社員」たちは避難生活を続ける福島県民。戻ろうとしている「職場」は福島第一原発。
福島県内の避難所にいた三十代男性は、東電の孫請けをしている勤務先から「今から戻って仕事が出来るか?」と連絡を受けた。
瓦礫の撤去や電気を復旧する為のケーブル敷設の作業にとの呼びかけだったが、この時は車のガソリンが手に入らず、身動きが取れなかった為、断った。
それでも、次の要請があれば応じようと思っている。
生活を考えての事もあるが、「日本の電力を担ってきた」自負もあった。
給料は一日一万数千円の日給制。
「俺らは東電から仕事を受注した元請け企業から仕事をもらう立場。今回の状況で『あいつらは来なかった』と思われたら、その後の仕事はどうなると思う?」
第一原発が建つ双葉町の北隣の浪江町民が役場ごと避難している二本松市内の避難所では、東電元請け会社の社員たちが同僚と頻繁に連絡を取っていた。
勤務先に、東電から「仕事があるので来て欲しい」と依頼があったという。同僚は約百人が県内外に避難している。
「今にでも行きますよ」「親に反対されている」など、電話での反応は様々だった。
「三百六十五日、東電から仕事をもらってきた。
次の仕事をもらう為には、被曝するかもしれない制限区域での仕事でも、行かなければならない
「廃炉になっても放射線を出し続けるのだから、管理する仕事は残る。
仮設住宅がどこに出来るか分からないが、四十代の今、避難先に仕事があるのか…」
第一原発の近くで生まれ育った四十代男性は「ここは原発以外に働く所がないから」と避難所で会社からの呼び出しを待つ。

福島県の農作物から基準値を超える放射性物質が検出され、同県の野菜に摂取制限が指示された翌日の二十四日朝。
須賀川市で、野菜農家の男性が自宅で縊死した。
震災で母屋や納屋が壊れる被害を受けながらも、無事だった畑のキャベツの出荷に意欲を見せていた矢先の出来事だった。
男性は三十年以上前から有機栽培にこだわり、自作の腐葉土などで土壌改良を重ね、種のまき方なども十年近くかけて工夫してきた。
今まで地域では育てられなかった高品質の品種の生産にも成功。
農協でも人気が高く、地元の小学校の給食用キャベツも一手に引き受けていた。
「子供たちが食べるものなのだから、気をつけて作らないと」と、安全な野菜作りを誇りにしていた。
摂取制限が指示された二十三日。男性はむせ返るような仕草を繰り返したという。
「福島の野菜は、もうだめだ」と。

地元に雇用を生み出していたのも原発。生き甲斐だった仕事を奪ったのも原発。
避難先のさいたまスーパーアリーナで開かれた双葉町の臨時議会では、町議たちの苦渋の表情が並んだといいます。
「町の財政破綻を何とか食い止めたかった(伊沢史朗議員)」と受け入れた原発が、その町を土地を放射能で蝕もうとしているとは、あまりにも皮肉です。

ドイツでは二十七日の地方選挙で、原発推進派だった与党が敗北し、環境政党・緑の党が躍進。
フランスでも同日の県議会議員選挙で、やはり原発推進派の与党は敗北。ヨーロッパ・エコロジー党などが票を伸ばしました。
原発のもたらした光と影、そして未曾有の危機は今、世界中に問いかけているような気がします。
私たちに「『効率主義』『物質主義』が築き上げてきた近代社会。その明暗と向き合う時ではないか?」と。