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平和な"住み分け"か? いがみ合う"同居"か?

以前の記事の続きのようなもの。
有史以来、燻り続けている人種問題に新型コロナによるパンデミック禍が加わり、幼稚な差別が益々表面化しているようです。


新型コロナで再燃する米国でのアジア人差別、日系人女性は車からボトルを投げつけられた/ナショナルジオグラフィック
※移民国家アメリカで黒人差別(=奴隷制の名残)問題の影に隠れがちな排華・排日法から続くアジア人差別の闇


"外道(げどう)"という仏教用語があります。
仏の教え=内道(ないどう)の対語で、主に仏教徒の立場から見た異教徒を意味します。
この世には、様々な環境下に生まれたが故に、様々な価値観を持つ人々が存在します。

遠い土地へ移動する手段が増えた現代社会では、それら異なる価値観同士が容易に出会う事が可能になりました。
その結果、自らの世界を広げる機会にもなれば、衝突を生む火種にもなり得ます。
特に、生活習慣の根幹を成す生理的なもの、アイデンティティーに関わるものは、まず互いに譲れはしない部分です。
しかし、この譲れない・譲っても譲らせてもいけない領域までも土足で踏み荒らす、無教養・狭量・短絡的・独善的な人間が少なくない事もまた悲しい現実です。

人間も哺乳類の一種である以上、生物として自らとは異質な存在を警戒する本能からは、どうしても逃れられないでしょう。
それでも、人間には有史以来培ってきた"理性"があります。
目の前に現れた相手にいきなり挑みかかる前に、安全な距離を取り、観察し、見極める…その上で対応を決めても遅くはない場面も少なくないはずです。
かと云って、動物的本能の全てを否定する事もないでしよう。
身を守る為に祖先から遺伝した"生き残りの術(すべ)"であり、命を守る警報装置です。
草食動物が肉食動物に怯えるのは、生存の本能からくる当たり前の行動なのです。
故に、自分の生命・財産・人権を認めない相手を警戒し、生活圏に近づけさせないのは、至極当然の行動なのです。

この世には、相互理解を確立するには知性や時間が足りない相手が、どうしても存在します。
現実では無い"夢"を見る事が出来るのはホモ・サピエンスの特色という学説もあるそうです。しかし、"グローバル主義"や"多様性社会"と云う夢だけでは守れない現実もあります。残念ながら、人類全てが"捨身飼虎(=他の生命を助ける為に自らの生命を投げ出す行為)"に値する相手ばかりでは無いのです。

誰と繋がりたいのか、誰と距離をおきたいのか、多くの人間関係は自らの意志で選ぶ事が可能です。
たとえ家族であっても、同居していがみ合うくらいなら、別居して距離を置いた方がお互いに平和的になれる事もあるのでは無いかと思います。
ましてや、生まれ育ちがまるで違う他人同士が、お互いの理性と歩み寄り無くして共存共栄していく事などほぼ不可能です。
"家族"や"社会"のモデルケースに囚われるあまり、一度しかないひとりひとりの人生を潰えさせてしまっては、本末転倒ではないでしようか。