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【新型コロナ】苦しむ人を思いやることができるのは人間だけ

その咳、伝染りません


「Umana cosa è avere compassione degli afflitti (苦しむ人を思いやることができるのは、人間だけだ)」
――― ボッカチオ『デカメロン(十日物語)』序文より


17世紀ルネサンス期の文学者ジョバンニ・ボッカチオによる小説『デカメロン』は、1348年のフィレンツェ郊外の別荘が舞台。7人の女性と3人の男性が、10日間にわたって1日1人ずつ様々な物語を披露していくというオムニバス文学です。
実はこの語り手たちは、ペストが蔓延するフィレンツェを逃れて郊外の別荘に籠った若者たちなのです。
著者であるボッカチオ自身も、このペスト大流行で父親や親類など近しい人々を次々と亡くしています。

今回の新型コロナ以前にも、SARSやMARS、スペイン風邪、コレラ、チフス、ペスト…等々、人類は度々伝染病の大流行に見舞われてきました。
根拠なき予防健康法による事故、優先順位を無視した買占め騒動、不毛な感染源の犯人捜し、不自由な生活からたまった不平不満をぶつける為に他人の粗探しをする浅ましい人々…
17世紀のイタリア人と現代人の行動には、程度の差こそあれ、たいした違いが無いのが人間の悲しい性(さが)というものなのでしょうか。

大切なのは、自分と大切な人、そして社会が健康を取り戻す事です。
念入りな手洗い・うがい、部屋に上着を持ち込まない、服は洗濯する、入浴して髪からつま先まで全身を洗う、混雑を避ける、マスクが手に入らなくてもハンカチなどで口を覆って咳を他人にかけない…
慌てる前に、怒る前に、祈る前に、居直る前に、やるべきこと・やれるべきことがたくさんあるはずです。

また、発生地の中国を始めとする各国の外出自粛要請や休校措置で「巣籠り生活」が再び注目されてます。
先ほどのボッカチオもそうですが、巣籠り生活は時に古典的名作を生んできました。
メアリー・シェリーによる『フランケンシュタインの怪物』は、「ディオダディ荘の怪奇談義」と呼ばれる集まりがきっかけとなり生み出された小説です。
1815年にインドネシアのタンボラ火山が大噴火し、火山灰よって日光が遮られた北半球は寒冷化。翌1816年は「夏のない年」と呼ばれる記録的な冷夏で長雨続き。レマン湖畔の別荘に集まっていたメアリーや詩人バイロンら一行は、外出出来ない退屈しのぎに「皆でひとつずつ怪奇譚を書こう(We will each write a ghost story.)」と提案。この時にメアリーが書き始めた小説が、のちに『フランケンシュタインの怪物』として発表される事になるのです。
また、ダンテ・アリギエーリの『神曲』やニッコロ・マキャベッリの『君主論』も、彼らが失業して田舎に籠っていた時に書かれたものです。

何も、一歩も外に出られないわけではありません。
大勢が集まらなくても、直接顔を合わせなくても、現代の文明の利器ならば可能になる事がたくさんあります。
私たちの手に今あるスマートフォンは、何の為にあるのでしょう?
そして、自宅にいる時間が長くなったからこそ、日頃は忙しさで先送りしていた事に大人も子供も取り組むチャンスではないでしょうか。
部屋の掃除をするもよし、読みたかった本を全巻読破するもよし、たまっていた映画やドラマを一気に視聴するもよし、自立に向けて家事を覚えるもよし…。

非常時こそ、「自分だけは大丈夫」といった正常性バイアスを捨てて命を守る行動を第一にとりましょう。
旅行のキャンセル料よりも、最高の思い出になるはずだったイベントよりも、テレビ会議で済むはずの出張よりも、自分や大切な人の人生が誰かの軽率な行動によって絶たれてしまう方が余程悲劇です。
個人の対応能力を超える事象に関しては、腹を決めるしかないでしょうが、やるべきことを為していれば防げたはずの犠牲には、後味の悪い後悔しか残りません。
非常時こそ、普段の「当たり前」がいかに脆くて不確かなものなのかを見直す良い機会とする方が余程建設的です。

自然災害は、人間の都合など構ってくれません。東日本大震災で、私たちはそれを嫌と云うほど思い知ったはずです。
忘れた頃にやってくる天災に対して、日常を犠牲にせずに済む範囲でいかに備えておくべきか…
「最大の効率」は「最大のリスク」である事を、私たちは常に肝に銘じておくべきではないでしょうか。

【参考】
コロナで荒れる人たちが失った「大切なもの」|イザベラ・ディオニシオ(東洋経済オンライン)
非科学的なコロナ対策が危ない|岩田健太郎(東洋経済オンライン)
「コロナ鬱」にならないための“究極のストレス・コントロール術” 潜水艦元艦長が指南|文春オンライン