参議院選挙から帰ってきたテンションで日本の防衛と外交について書いてみた
《要点はよ》
憲法9条よりは日米地位協定を改正して「日米"対等"同盟」にしたら、思いやり予算もいらないし、抱えてる米国債も遠慮なく売買できていいと思うんだけど…
《大事な事だから書いておきました》
・アメリカは(中・露・他テロリストを煽っても本当の危機に陥ったら)守ってくれない
・人口で上回る大国には物理的に勝てない
・戦争して得できるのは、だいたいお偉いさんだけ
安倍政権の追米路線は目に余るものがありますが、日米同盟そのものは無論まだ必要でしょう。
ですが、同盟とは国際情勢の変化と共に形を変えていくべきものです。
この先、じわじわ衰退していく斜陽のアメリカに全てを委ねていては、日本も一緒に心中する破目になりかねません。
例えば、日米地位協定の「対等同盟」への改正、核兵器のように「実際は使えない抑止力」である集団的自衛権に頼らずとも発動できる個別自衛権の法整備。
また、いちいちアメリカを介さない日本独自の外交ルート、インテリジェンスの現場の成果を政治にちゃんと反映させる組織形態など、日本が国防のために独自で整えていかなければならない事案も多々あります。
よく「日本と仮想敵国が戦ったらどっちが勝つか?」といった戦略シミュレーション本やwebサイトがありますが、人口1億2千万人規模の日本が仮に、人口13億人規模の中国(或いは3億1千人規模の米国)と戦争にでもなれば、まず勝てないでしょう。
理由は簡単。「物量が違い過ぎるから」です。
人口は(普通に暮らす国民には迷惑千万な事に)兵力の動員力であり、補給物資の生産能力でもあります。軍事衛星やイージス艦など、どれだけ最新兵器を揃えて厳しく訓練を積んだ所で、最後は「数の力」に押し切られればお終いである事は、第二次大戦における日中戦争と太平洋戦争で嫌と云うほど思い知ったはずです。
例えば、2014年の小笠原諸島における大規模なアカサンゴ密漁行為のように、中国から武装漁民や難民を装ったボートピープルなどを大量にけしかけられたとして、それらを一人残らず排除・拘束する事など海自・海保の全能力をもってしても不可能と思われます。
大陸間弾道ミサイルでほぼ勝負がつく時代になったとはいえ、「自衛」戦争しか交戦権のない日本は、交戦国領内の軍事基地を潰す反撃も(法的には)難しい状態です。
強力な軍事力でいくらでも戦争を仕掛けられる米・中・露ら大国に挟まれた小国である日本が、魑魅魍魎が跋扈する国際社会で今後も生き残っていく為には、それら大国と上手く付き合っていかざるを得ないでしょう。
特にロシアとは上位下達が効くプーチン政権のうちに早々に平和条約を結んで、元々「対アメリカ」でしか利害が一致しない中露の足並みを乱しておくべきです。(それにしても、プーチン大統領の訪日話が浮上するとシベリア抑留が記憶遺産になったり、葛根廟事件の慰霊祭が珍しく報道されたりする"このタイミングの良さ"は何なのでしょうね…これらはもっと早い時期に認知されてしかるべき出来事だったでしょうに…)
ロシアが日本の技術・金・無害さに秋波を送っているタイミングこそ、日本有利の条約をまとめるまたとないチャンスのはずです。(90年代には「ロシア極東地域は日本に宣戦布告してすぐ降伏すれば暮らしが良くなる」なんてジョークがあったほど)
しかも、最近は手前味噌でこさえた国連さえも邪魔になってきた節があるアメリカよりも、ロシアの方が国際法上「合法的」に対抗している逆転現象が起きているほどです。
一例が、ガス代がわりに軍港を借す契約を破ったウクライナに怒ったロシアがクリミアを合法的に乗っ取った「クリミア併合問題」の件。
争利不争義/Fluctuat nec mergitur.(個人ブログ)のまとめ記事
自分より明らかに強大な相手を下そうとする必要はありません。と云うか、物理的に無理です。
「外交主導権」と云う手綱さえこちらで執れれば充分でしょう。肝心の「手綱の取り方」さえわきまえてさえいればの話ですが…。
自国と相手国の強みも弱みも知り尽くしていれば、「彼(敵)を知り己を知れば、百戦して殆うからず」、外交上で決着をつける事が可能な事案も増えるはずです。
一度戦端を開いてしまえば、たとえ勝っても労働生産人口の中核たる成人男子の多くを戦死させ、国民の生命・財産に多大な損失を与え、国力の低下を招きます。
「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして兵を屈するは善の善なる者なり」
故に、"戦って勝つ"よりも"自国も相手国も保全したまま勝つ"方が得られる利益はずっと大きいものだと言えます。
「国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ」
どれだけ格好良さそうな信奉・信条を振りかざした所で、「利に合えば則ち動き、利に合わざれば則ち止まる」。
人間という生き物は結局利害(※主に安泰と金銭)で動くもの。
ならば、相手の欲しがるもの(※条約の妥協や経済協力等)を与えて味方に引き入れ、相手の嫌がるもの(※軍事同盟や投資引上げ等の抑止力)をちらつかせて戦意を殺げば、危ない橋を渡って高い代償を支払わなくて済みます。
何より、戦争は「(主にお偉いさんの)利益」の為に行われるという身も蓋もない現実を忘れてはならないでしょう。
「正義」や「憎しみ」などという「感情」的な報道・演説は、国民の生命(=兵力)と財産(=税金)を戦争と云う名の「公共事業」につぎ込ませる為の煽動工作に過ぎません。(そしてその為に本当に人を殺して事件を利用する外道も存在する…)
「義を争い利を争わず、是を以て其の義明らかなり」(司馬法)が通用すべきなのは、真実や事実を追及する事が目的である歴史などの「学問」の世界だけです。(…そこでも学閥争いや御用学者と云う「利益」が存在しますが)
いずれにしても…
社会正義もなければ然程の恨みもない政財界がマスコミを使って国民を煽って戦争の「利益」を享受する。
片や、国民はいたずらに増大させられた「恨み」をお咎め無しに発散出来る「正義」に結び付けられた挙句、体よく動員され利用された挙句に邪魔になれば切り捨てられる。(2012年中国反日暴動や2014年中国漁船珊瑚密漁問題など)
サンゴ密漁者たちは今、中国で国賊扱いされている/週刊SPA!(2014.12.16)
人類史上、飽きもせず繰り返されてきたこの搾取構造を「愛国」と妄信するのは、馬鹿馬鹿しく思えてなりません。
孫子曰く…
「夫れ戦勝し攻取して、其の功を修めざる者は凶、命(なづ)けて費留と曰いふ。
故に曰く、 明主は之を慮り、良将は之を修む。
利に非ざれば動かず、得るに非ざれば用ひず、危きに非ざれば戦はず。
主は怒りを以て師を興す可からず、将は慍りを以て戦を致す可からず。
利に合いて動き、利に合わずして止む。
怒りは以て喜びに復えるべく、慍りは以て悦びに復えるべし、亡国は以て存すべからず、死者は以て復た生ずべからず。
故に曰く、 明主は之を慎み、良将は之を警いましむ。
此れ国を安んじ軍を全うするの道なり。」
[訳]
万が一、戦いに勝利して攻め取るに及ばなければならなくなった時も、国民の暮らしを守り、政治の方針を正していく事が出来ない者は、国家にとって害悪である。
利益がなければ軍を動かさず、得るものがなければ軍を用いず、危険に迫られなければ戦わない。
国主は個人的な怒りに任せて戦争を起こしてはならず、指揮官も個人的な憤りによって戦ってはならない。
自軍にとって有利であれば動き、不利であればそこに留まる。
月日が経てば、怒りはまた喜びに変わり、憤りもまた悦びに変わる事もあるが、滅亡させてしまった国家は再興できず、犠牲にしてしまった死者も二度と生き返らない。
真に優れた国主は軍事力の行使を慎み謀るものであり、真に優れた指揮官は戦闘になる事態を避けようと努力するものである。
これが国家と国民の安泰を守り、抑止力としての軍隊を保全する道理である。
孫武は、怒りや恨みを原動力とする感情に流された安易な戦争を戒めています。
戦争は「戦闘によってのみ得られる利益(=存立危機の回避)」が「自軍の戦力で獲得可能な情勢(=自国に有利な条件で終戦協定までこぎつける作戦要領がある)」にある時においてのみ行われるべきものである、と説かれています。(まぁ、「徴兵制で若者を鍛え直すべき」などと兵役を更生プログラムか刑務所の労役と勘違いしている自称"戦争世代"の国防意識の低さは論外ですが…)
国家の滅亡や民間人の虐殺など「取り返しのつかない事態の回避・抑止」の為に、充分に慎重な検討と判断をしなければ戦争などしてはならないのです。 (在留民保護に出兵した義和団事件と、英米の報復攻撃に参加しなかった1927年南京事件との対応の差など)
義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか/しばやんの日々(個人ブログ)
損しかないのにアメリカの独走に付き合ったり、中国共産党や人民解放軍の挑発を真に受けたり、ましてや警察・防衛官僚と警備・防衛産業の雇用の為に戦争危機を煽る軍産複合体まがいの戦争依存経済など、将来に国を傾かせるだけです。
世界中が資本主義の暴走による慢性的な不景気から政情不安に陥っている昨今は、国内の不満を逸らすためなら無闇に「外敵」を作って喧嘩を売る国・団体がいくらでもおり、平身低頭外交一辺倒ではとてもやり過ごせない厄介な情勢でもあります。
このまま、アメリカ頼みで「見ざる・聞かざる・言わざる」でいた所で、次から次へと難癖を付けられ続けるだけに思えてなりません。
刃を持たない者は為す術もなく斬られ、刃を振り回す者はいたずらに周囲を斬りつけ、刃と鞘を正しく扱える者のみが自身にも他者にも一定の安息をもたらす事が出来るはず。
国家が持つ交戦権も、私たち一人一人が持つ選挙権に繋がっています。
組織票があろうと、動員があろうと、票数改竄があろうと、仮にも選挙制度がある民主制国家では「此の有権者にして此の権力者あり」なのです。
行使できる権利を正しく使う事。
自らがもたらした結果に堂々と向き合える程度の決断をする事。
国民一人一人に与えられた権利も、国民から預けられた権力も、心得るべき基本は同じではないでしょうか。