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国家に尽くし、国家に捨てられた天才

※2013/12/3-20:47初出記事に加筆

アラン・チューリング[1912年6月23日-1954年6月7日]は、「人工知能の父」と呼ばれるイギリスの天才数学者である。
彼は、ノイマンと並ぶ(※1936-38年の間、同じプリンストン高等研究所に所属)「コンピューター」という発想の先駆者であり、「アルゴリズム」と「計算」の概念を定式化し、世界最初のコンピューター「コロッサス」を作り出した。
また、コンピューターの概念を先取りした仮想機械「チューリング・マシン」、文字対話で相手が人間か人工知能かを見分ける思考実験「チューリング・テスト」にもその名を残している。

そんな彼の最大の功績の一つは、解読不可能と云われたドイツのエニグマ暗号を解読し、連合国軍の勝利に大きく貢献した事だろう。
しかし、1970年代までその業績は国家最高機密だった。
彼を含む暗号解読チームの関係者は、友人や家族にすら自らの仕事について一切話す事を禁じられていた。
チューリングは「戦争という国家の危機に何もしなかった」とレッテルを張られ、失意のうちに不審な死を遂げる。
エニグマ暗号解読によってイギリスは輸送船を襲うUボートの動きを掴む事に成功し、本土防衛の為の武器・弾薬不足に悩む軍を、何より深刻な食糧不足に苦しむ多くの国民をも救ったというのに…。


チューリングは1912年6月23日ロンドンで生まれ、間もなく兄と共に退役軍人のウォード夫妻に預けられた。
父親は子供たちの学費捻出の為に英領インドへ単身赴任の身。
母親も、夫の居るインドと子供たちの待つイギリスを行ったり来たりする生活を送っていた。

12歳になったチューリングは、パブリック・スクール(※全寮制のエリート養成校)の一つシャーボーン校に入学。
誰にも教わらずにグレゴリーの公式を見出して数学教師を驚かせ、寮長にもなるなど頭角を現す。
ケンブリッジ大学キングス・カレッジ入学後は、23歳という若さでフェロー(※特別な義務も無く3年間の月給と研究室が保障される地位)にまで選ばれる程、彼は学内でも抜きん出た存在だった。
この頃、チューリングは数学会を騒然とさせた「ゲーデルの不完全性定理」に接して論文を書き上げる。
『計算可能数について』と題されたその論文の中で、彼は四則演算を含むありとあらゆる論理的手続きを実行可能な想像上の機械「チューリング・マシン」を考案し、そのシステムに限界がある事までも示した。
のちにコンピューターの原型となるこの画期的な発想は、数学界中にアラン・チューリングの名を知らしめた。
気鋭の若手数学者としてデビューした25歳のチューリングは、次々と論文を書き続けた。
しかし、順風満帆だった彼の数学者人生に、思いもよらぬ暗雲が垂れ込める。
第二次世界大戦が始まったのだ。

チェンバレン英首相がドイツへ宣戦布告した翌日の1939年9月3日、チューリングは招集される。
数学者として抜きん出た功績を持ち、エリートの地位にいる彼ならば、穏便に断る事も出来た。
しかし、チューリングは国家への献身を当然の義務だと考えていた。
イギリスには、「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)=高貴なる者の義務」の伝統がある。
高い地位にある者は、いざ国に一大事あらば真っ先に駆けつけ、命を懸けて尽くすべし。
貴族の子息やエリート養成校の生徒は、代々この精神を文字通り「叩き込まれ」てきた。

第一次世界大戦でも、元素の特性X線の波長と原子番号の関係(※モーズリーの法則)を見出した物理学者ヘンリー・モーズリーが、激戦地ガリポリ戦役で工兵部隊の通信将校として戦死している。
彼がノーベル賞候補にノミネートされたその年の出来事だった。
モーズリーは、マンチェスター大学時代の師であったラザフォード(※「原子物理学の父」と呼ばれ、1908年ノーベル化学賞受賞)が、後方任務でその頭脳を活かすようにと止めるのも聞かず、自ら危険な前線に志願してしまったのだ。
祖父も父も王立協会の科学者という家系に生まれ、イートン校、オックスフォード大学トリニティ・カレッジという名門校出身のモーズリーにも、「高貴なる者」としての強い義務感が働いたのかもしれない。

実際、両大戦を通じてオックスフォード大学とケンブリッジ大学出身者の死傷率は著しく高かったという。

招集されたチューリングの配属先は、『政府暗号学校(GCCS)』という名の政府機関だった。
拠点は、オックスフォードとケンブリッジのほぼ中間の丘陵地にある邸宅と庭園『ブレッチリー・パーク』。
そこで与えられた任務は、次のようなものだった。
「ドイツのエニグマ暗号を解読せよ」

イギリスは16世紀頃からほぼ常に情報局を持ち、暗号解読を始めとする諜報活動は大英帝国の繁栄を支えていた。
スパイ小説『007』シリーズで知られる『MI6(エム・アイ・シックス)』こと『秘密情報部(SIS)』は1909年創設である。
そんな暗号解読の伝統と実績を誇るイギリスに、思いもよらぬ『強敵』が立ちはだかった。
それが、1936年にドイツが導入した『エニグマ暗号』である。
ギリシア語で「謎(Enigma)」を意味するこの暗号は、1918年にドイツの技術者アルトゥール・シェルビウスが発明した電気機械式暗号機械が作り出すもので、元は商業用だった。
価格が高価だった為にあまり売れずにいたこの暗号機に、第一次大戦でイギリス軍に暗号を解読されて煮え湯を飲まされたドイツ軍が注目した。
ドイツ軍は1925年にシェルビウスの暗号機を正式採用し、軍の手でさらに精密化された約3万台が使用される事になった。
シェルビウスの暗号機は画期的だった。
見た目はただのタイプライターのようだが、通常文を入力するだけで自動的に暗号化されて出力されるという利便性。
さらに、アルファベットがどのように暗号化されるかを決めるパターン「暗号鍵」は、一兆の一万倍通りという膨大さだった。
たとえ、一つの「暗号鍵」を一分で解読したとしても、一兆の一万倍分――つまり宇宙創生から今日までの時間をかけても不可能という事になる。
この前代未聞の複雑さを誇る暗号の前に、それまで素晴らしい解読成果を上げていたイギリスの解読チームは、全く歯が立たなくなってしまった。
歯車の無作為な組み合わせで作られる機械暗号には、言語独特の癖を読み取ったり、文字列の出現頻度を手掛りとする頻度解析など、従来の解読法が通用しなかったのだ。
敵の情報を掴めないまま戦争に突入してしまうなど、イギリスにとって経験のない事態である。
イギリスは大急ぎで暗号解読機関をロンドンからブレッチリー・パークに移し、組織の再編を図った。
それまでの古典語学者や外国語の専門家、教養人でもあった神父による構成員に、クロスワードやチェスのチャンピオン、思想的にスパイになる心配のないオックスブリッジの学生、そしてチューリングら数学者が加わった。

その年の9月1日にポーランドに侵攻したドイツは、翌々日の英仏による宣戦布告などものともせず、翌年4月にデンマークとノルウェーを、5月にはベルギーとオランダを占領してしまう。
ドイツに融和策をとっていた所為で対応が遅れた、とチェンバレン政権は批判を浴びる。
第一次世界大戦から立ち直ったばかりのヨーロッパが再び戦火に包まれる事を避けようと、ヒトラーに妥協した判断が裏目に出た。
代わって、海軍大臣のチャーチルが首相に選ばれ、挙国一致内閣のもと国家総動員法を施行した。
その間にも、ドイツ軍は難攻不落と云われていたマジノ線をいとも容易く突破。
6月にパリを陥落させられた英仏連合軍は、ダンケルク撤退戦で命からがらドーバー海峡を逃げ延びた。
追い打ちをかけるように、ドイツ海軍の潜水艦Uボートが連合国側の補給線を絶つべく輸送船に魚雷攻撃を加えるようになる。
毎月三十万トンもの輸送船が撃沈され、食糧と石油の半分をアメリカ等からの輸入に頼る島国は危機的状況に立たされた。

鉄条網で囲まれた広大なブレッチリー・パークでは、三交代制で二十四時間エニグマの解読が続けられた。
解読が一日遅れれば、遅れた分だけ輸送船が沈められる。尊い人命が、貴重な物資が、海の藻屑と消えてしまう。
チューリングら解読チームは、文字通り日夜奮闘した。
何より頼もしかったのは、ドイツとの開戦に備えてエニグマの解読を進めていたポーランド軍参謀本部第2部暗号局から託された多くの成果だった。
結果的に開戦には間に合わず、ポーランドはドイツに占領されてしまったが、ポーランド政府は亡命はしても降伏宣言は出さなかった為、第2部暗号局のメンバーも南仏やアルジェリアでエニグマと戦い続けていた。
これらの成果がポーランドから提供されたものだという事実は、「機密保持の為」にブレッチリー・パークでは伏せられていたものの、「エニグマは解読可能」だという根拠の存在は、チューリングら解読チームにとって心強い支えになった事だろう。
ブレッチリー・パークに到着して数週間後に、チューリングは数学者ウェルチマンと共にポーランドの電気機械式暗号解読装置『ボンバ(bomba)』を改良した『ボンベ(bombe)』を生み出した。
『ボンベ』はその後、エニグマ暗号解読の主要な自動化ツールとして、終戦まで200台以上が使われる事になる。
1940年7月、事態が進展した。
沈没したり捕獲したドイツ船から、運良く暗号シートを盗み出す事が出来たのだ。
それをヒントに、チューリングら解読チームは遂にUボート暗号の解読に成功した。Uボートの位置を正確に割り出せるようになったのだ。
その情報を直ちに護送船団へ通知すれば、Uボートが待ち構える海域を避ける事も、駆逐艦を急派してUボートを逆に攻撃する事も可能になった。
毎月三十万トンもの輸送船の被害が、7月には十二万トン以下に、11月には六万トンにまで減少した。
ドイツ海軍は、遂に北大西洋でのUボート作戦を一時中断せざるを得なくなったのである。

1940年11月。傍受したドイツ軍の暗号通信を解読した所、攻撃目標がロンドンから別の都市に変更される事が判明した。
目標都市は、コヴェントリー。
コヴェントリーはロンドンから北西にある交易都市で、チョコレートメーカー『GODIVA』の由来になったゴダイヴァ夫人の伝説で知られる町である。
攻撃の日は11月14日。
ブレッチリー・パークは、早速解読した情報を陸軍省に伝えた。
これで、イギリス軍はドイツ軍を待ち伏せして返り討ちに出来る。コヴェントリー市民の命は守られる。
解読チームは、自分たちの仕事が多くの国民を守る筈だと信じた事だろう。
しかし、彼らの期待は裏切られた。
チャーチルはこの情報を無視し、無防備のまま空襲を受けたコヴェントリーの街は壊滅的な被害を受けた。
チャーチルは、コヴェントリー市民の命よりも、エニグマ暗号をイギリスが解読出来ているという優位性をドイツに知られる事を恐れたのだ。(※コヴェントリーという地名までは解読出来ていなかったという説もあり)

事態は再び悪化していく。
1942年8月。暗号をさらに精密化したドイツ軍が、再びUボートによる輸送船への攻撃を再開した。
今度の暗号には、チューリングも手こずった。
またしてもUボートの動きを見失った連合軍は、月にわずか数隻撃沈という乏しい戦果を挙げるに留まった。
対して被害は1940年頃を上回り、11月には六十万トンもの輸送船が撃沈され、国の食糧備蓄は一週間を切っていた。
このままでは、イギリスに船がなくなってしまう。多くの国民が飢餓に苦しみ、武器・弾薬が尽きれば、ドイツに降伏しなければならなくなる。
チューリングら解読チームは、イギリス一国のみならずヨーロッパの運命を背負って、必死にエニグマと格闘していた。
チャーチルはブレッチリー・パークを密かに何度も訪れては、「黙って金の卵を産むガチョウたち」に感謝と激励の言葉を与えた。
そして、1943年1月。輸送船の被害は激減し、5月までに100隻ものUボートが撃沈されるようになる。
ブレッチリー・パークが再びエニグマ暗号を破った成果だった。
5月下旬になって、ドイツ海軍はUボート作戦を再び中止。アメリカから豊富な補給と膨大な援軍を得たイギリスは、連合国軍がヨーロッパへ反攻を仕掛ける拠点となる。
その年は、チューリングにも一つの進展があった。
暗号解読のさらなる能率化の為、「チューリング・マシン」を具現化した世界最初のコンピューター…1500個の真空管からなる『コロッサス』が誕生したのだ。

1945年、第二次世界大戦は終結。
イギリスを始めとする連合国軍は、ドイツを始めとする枢軸国に勝利した。

しかし、チューリングの戦後は悲惨だった。
6年ものブランクの所為で数学研究に復帰する事叶わず、戦時中の働きは「機密」扱いされて誰にも知られる事なく、数学を生物学に応用しようという新しい試みは異分野からの理解が得られず評価される事もなかった。
望みをかけたコンピューター改良も、主な担い手はエンジニアに移っており、ただの計算機を超えて人工知能を目指したいチューリングは歓迎さえされなかった。
『コロッサス』の存在も「国家機密」として封じられ、世界最初のコンピューターの座はアメリカの『エニアック』(1946年)だと世間には思われていた。

イギリスは、ドイツから没収した大量のエニグマ暗号機をアフリカや中南米のかつての植民地に売却していた。
この「高価なコンピューターを使わなくても高度な暗号を作る機械」に、独立したばかりの旧植民地は飛び付いた。
かつてのエニグマで暗号化された外交文書が、大使館や情報機関でやりとりされた。
そして、チューリングらブレッチリー・パークの奮闘によってエニグマを既に解読していたイギリスは、これらの国の動きを『コロッサス』によって尽く掴む事が出来ていた。
この情報戦における優位性を保つ為に、「チューリングらがエニグマ暗号を解読した」という功績は「国家最高機密」として絶対に公表出来ないものになっていた。

やがて1952年、チューリングは逮捕される。当時は違法とされていた同性愛が発覚した為だった。
マンチェスター大学教授が起こしたこのスキャンダルは新聞に書き立てられ、有罪という裁判結果も世間の知る所となった。
チューリングは、直ちに政府のコンピュータープロジェクトから外される。
理由は、スキャンダルよりも冷戦が始まった事だった。
米ソ関係は水爆実験を競うなど緊張が高まる一方となり、イギリスはアメリカと連携を深める為に諜報活動のノウハウをCIAに提供・共有していった。
そんな中、共産主義者のイギリス人エリート5人がソ連のスパイだったと発覚して亡命する「ケンブリッジ5人組」事件など、機密情報の漏洩が後を絶たなかった。
同性愛者は敵工作員からの脅しに弱いといった理由から、機密に関わる仕事をさせてはならないという法律が2000年になるまであったのだ。実際、1953年のアメリカでは国防総省から49名、CIAから31名の同性愛者を追放。
翌54年にはマンハッタン計画の功労者オッペンハイマーを赤狩りで糾弾した末に公職追放している。
軍事・外交に関わる暗号、暗号の作成・解読に関わるコンピューター、コンピューターが発射・起爆装置に関わる水爆は、アメリカとイギリスにとって西側陣営を支える最重要機密だった。
そこに、同性愛者のチューリングを関わらせる訳にはいかなかったのだ。

1954年6月8日は、季節外れの寒波に見舞われ、冷たい雨が絶え間なく降り続いていた。
その日の朝、通いの清掃員が寝室で倒れているチューリングを発見した。ベッドの傍らには、青酸カリの付いた齧りかけの林檎が置かれていた。
検死の結果、死因は青酸カリ中毒。
当時のチューリングが置かれていた苦しい立場から、自ら林檎に毒を塗り自殺したものと断定された。
敬虔なキリスト教徒の母親だけは、自殺を頑強に否定した。息子が食器のメッキ加工を趣味にしており、家には常にメッキ用の青酸カリが置いてあった事などから事故死を主張した。
しかし、関係者の誰もが口には出さなかったが、他殺も疑っていたのではないだろうか。
晩年のチューリングは、国家機密を握る要注意人物として、私服警官に尾行されていたともいうからである。

数学者人生の最も重要な六年間を捧げながら、それが「国家機密」に関わっていたばかりに彼の功績は封印されてしまった。
敵国の国家機密を暴きながら、祖国の国家機密に数学者人生を奪われたのだ。

イギリスは「国家機密」を守る為に、不世出の数学者と多数の市民を犠牲にしたのである。
その行為は「勝利の為」という大義名分の下で行われた。
確かに、イギリスは勝利した。しかし、それは国家の勝利に過ぎず、国民の勝利とは言い難かった。
戦後、政権交代の繰り返しで政治は落ち着かず、国有化された産業は競争力を失い、植民地からの収入は無くなり、かつての大英帝国は「英国病」と揶揄されるほど見る影もなく衰退した。

祖国を信じて、その類稀なる頭脳を捧げたチューリング。
祖国を信じて、出征する夫や息子を見送り、戦時下の不安な生活に耐えていたコヴェントリー市民。
彼らは、信じた国家に見捨てられ、尽くした国家に報われる事はなかった。

モーズリーが戦死したガリポリ戦役で海軍大臣として攻撃を強行し、ドイツ軍の攻撃目標を掴みながらコヴェントリー爆撃を黙認し、チューリングが解読したエニグマ暗号を彼の功績ごと「国家機密」として封じたウィンストン・チャーチルが、イギリスを勝利に導いた英雄と称賛され、『第2次世界大戦回顧録』でノーベル文学賞を受賞した事は歴史の皮肉としか云いようがない。

コヴェントリーの中央広場には、今でも爆撃で破壊された大聖堂がそのまま遺されている。
「国家機密」を守る為に多数の国民の命がここで奪われた歴史を、美しい廃墟は今に留めている。

(参考:『天才の栄光と挫折』藤原正彦 | 『若き物理学徒たちのケンブリッジ』小山慶太 | Wikipedia)