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maid in 東北

2011年03月27日に『東日本大震災のちょっと良い話 買い物編』と題して紹介した東北のアンテナショップ。
「被災地の商品を買って支援したい」というお客で盛況だった頃から早一年。
いずれのショップも震災直後から秋頃にかけての盛況は落ち着きましたが、震災前よりも確実に客足が増えていました。
震災をきっかけにアンテナショップを訪れてその商品を気に入り、リピーターとなったお客が多いからです。
今では「被災した街の商品だから」ではなく「美味しい商品だから」という理由で購入されています。
こういった積み重ねが、被災地が本当に立ち直る一歩一歩となっていく筈です。

詳しくは引用元で(↓)

【「食べて支援」は続いている?――被災地アンテナショップの今】 (日経トレンディネット2012/3/6)

そして、海外でも…

約2000店の日本料理店があった香港。
昨年は原発事故による日本産食品への放射能汚染への危惧から大きく売り上げが落ち込み、20店以上が閉店に追い込まれました。
現在、福島県他5県の野菜、果物、牛乳等が輸入停止。それ以外の食品は全て放射線検査が実施されています。
日本産の干アワビやホタテを販売する海産食材店の麦澄波(75)さんは、鈍っていた客足が事故前の9割まで回復したといい「検査の説明をすると、大抵のお客さんは安心してくれるようになった」。
5月以降、日本食業界は香港政府と一体となって、日本食の安全を宣伝したり、半額キャンペーンを実施。
その甲斐もあり、客足は事故前の状態に戻りつつあるそうです。(朝日新聞2012/3/11)

という訳で、管理人は行きつけのスーパーで久々に見つけた三陸産ワカメに狂喜!
きちんと「放射線量検査済みです」と書かれていたので、迷わず購入しました。
やっぱり、三陸産の生ワカメが味・歯応え共に最高に好みです♪
養殖してくれた漁師さん、出荷してくれた水産加工工場の皆さん、そして流通してくれた全ての物流業者さんと仕入れてくれたスーパー等諸々に感謝して味わいたいと思います。(^q^)

「ミスター・センポ」と「ゼネラル・ヒグチ」

※2018-1-31(02:25)追記
※2016-6-21(19:42)追記

東日本大震災の被災者を支援すべく来日してくれた海外各国からの救援隊。
その中に、イスラエル軍の軍医、薬剤将校、看護兵ら50人で編成された緊急医療部隊の姿がありました。
部隊は3月28日から宮城県栗原市を拠点に南三陸町で活動を開始。
志願したという軍医は
「編成できる最高のメンバーで来日した。日本人被災者の役に立ちたい」。
イスラエル大使館の職員も
「お手伝いできることがうれしいし、日本の文化に触れることはとても興味深い。医療チームにとっても特別な体験です」という。
将兵らは放射線量測定器を装備するなど、万全な態勢で支援活動を長期に亘って展開。
4月10日に帰国の途に着きました。

思えば、日本とイスラエルには浅からぬ縁があります。
恐らくユダヤ人迫害では過去最大規模であったであろうナチスによるホロコーストの嵐が吹き荒れた60余年前。
弾圧と虐殺の恐怖を前に、ヨーロッパを脱出しようとしたユダヤ人と関わりを持った日本人がいました。

一人は、赴任先のリトアニアで、外務省訓令に反し(※1)発給した「命のビザ」により6千人ものユダヤ難民を救った外交官・杉原千畝(1900~1986年)。
もう一人は、旧満州に逃れてきた2万人(※2)ものユダヤ人に手を差し伸べた第5方面軍兼北部軍管区司令官・樋口季一郎中将(1888~1970年)。

※1 1938年12月には「ユダヤ人排斥は我が国が(パリ講和会議以来)主張してきた人種平等の原則に反する」故「ユダヤ人を排撃することなく他の外国人と同等に扱う」との方針を大日本帝國政府は決定していた。日本外務省外交史料館でも、ウィーン、ハンブルク、ストックホルムなど欧州12箇所の日本領事館で数百件のビザが本国外務省の許可を得た上でユダヤ難民に発行された記録が近年発見されている。また、辿り着いた日本ですんなり入国が許可された事を「日本の入国管理官は通過ビザのチェックに意外なほど寛大だった」と『杉原ビザ』リスト17番イサック・レビン氏らが証言。

※2 実際に救助されたのは記録写真に写る18人だけだったとの説。樋口本人が自ら手を差し伸べた"写真に残る最初の18人"を皮切りに、満州経由の脱出ルートとして多くのユダヤ人がそれに続いた結果、その人数が"2万人"規模になったのではないかとする、早坂隆氏の"ヒグチルート"説。樋口の手記「彼ら(=ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトボールに詰めかけ、入満を希望した」という部分で、何故か芙蓉書房では"何千人か"が"2万人"となっている事から出た数字だとする説。等々諸説ある。

テヘランの銀翼

1890年9月16日。
オスマン帝国(現・トルコ)の軍艦エルトゥールル号で親善訪日使節団が来日し、皇帝(スルタン)の親書を明治天皇に奉呈。
その帰り路、台風で荒れ狂う紀伊沖の海に587人もの乗組員と共に沈んだ。
当時の大島村(現・串本町)では流れ着いた乗組員69人を村人総出で救助。
灯台を始め寺や学校では生存者の怪我を手当てし、低体温症を人肌で温め、時化で漁が出来ず食糧不足の中で非常食用の鶏も出すなど献身的に介抱した。

あれから121年を経た2011年3月28日。
和歌山県串本町の樫野崎灯台の傍に建つエルトゥールル号遭難慰霊碑に、四人のトルコ人が献花に訪れた。
一組は、1890年に樫野沖で遭難した所を紀伊大島の島民に救助されたエルトゥールル号乗組員の孫ネビン・セレスさん(59)と曾孫エムレ・セレスさん(32)。
もう一組は、オルハン・スヨルジュさん(85)と妻のヘルガ・スヨルジュさん(73)。
オルハンさんは、1985年のイラン・イラク戦争でテヘラン空港に取り残されていた日本人を救出したトルコ航空の元機長だった。

イラン・イラク戦争時、イラク側はイラン上空の航空機に対する無差別攻撃を宣言。
日本航空のチャーター機が組合の反対で飛べなくなった中、伊藤忠のイスタンブル支店関係者や在テヘラン日本大使館からの救援要請をトルコ政府は了承。
他国のチャーター機が次々と自国民を乗せて飛び立った後、テヘラン空港に取り残されていた日本人215人を2機のトルコ航空機に乗せて脱出させた。
その第1機長を務めたのが、オルハンさんだった。
オルハンさんは「最新の情報を入れながら、どのルートを飛ぶべきか、安全面を考慮した」と当時を振り返った。
限られた時間の中で助けることが出来、トルコの国境を越えた時に『Welcome』と伝えると、機内で拍手が起きたという。
「エルトゥールル号遭難の際はトルコ人約600人が亡くなったが、航空機で日本人全員を助けられことを幸運だと思うし、恩返しができた」と話した。

到着した一行を地元住民約30人がトルコと日本の旗を持って出迎え、献花式典では両国の国歌が流され、串本町トルコ文化協会会員が追悼歌を歌った。
田嶋勝正串本町長は
「日本人を助けてくれたオルハンさんが、慰霊碑にお参りをしたいと日本に来てくれてありがたい。エ号乗組員の子孫にも会えて感激している。
両国の素晴らしい友情を後世に受け継いでいかなければとあらためて思う」と挨拶。
前の年の6月4日には、トルコ航空で脱出した日産自動車社員・沼田準一さん(68)、服部栄介さん(57)、高星輝次さん(52)の3人が、同町長に
「日本とトルコの友好の発展に使っていただければ」と「ふるさと納税」として寄付金を手渡した。
そして、120年前のエルトゥールル号の遭難で、当時の地元民らが献身的な救助活動をした事が礎となって、自分たちが無事帰国出来た感謝を伝えていた。(紀伊民報2011/3/28及び2010/6/7)

実は、この話しにはまだ続きがありました。

伝えるということ

震災で被害を受けた宮城県石巻市の夕刊紙「石巻日日(ヒビ)新聞」の号外が、アメリカのワシントンにあるニュースの総合博物館「ニュージアム」に展示される事になりました。(朝日新聞2011/4/16)
困難を乗り越えて発行そされた歴史的な紙面として、ニュージアム側が紙面の寄贈を石巻日日新聞側に求めて同紙が応じました。
石巻日日新聞は震災直後、臨時で手書きの号外を壁新聞として張り出す形で六日間にわたって発行。
通常の編集も製作も印刷も出来なくなった中、記者は懐中電灯の明かりを頼りに油性ペンで記事を書き、避難所の壁に張り出していたそうです。
ニュージアムはウェブサイトで
「この新聞は、人間の知ることへのニーズと、それに応えるジャーナリストの責務の力強い証しである」と紹介。
クリストファーソン学芸員は
「大変な苦難に直線するなか、日日新聞のジャーナリストは地域社会に重要な情報を提供するという責任を果たし、そのためにペンと紙を用いた」と称賛。

電気が切れても、輪転機が止まっても、パソコンが無くても、新聞は作れる。ニュースは必要とされる。
まさに、ジャーナリズムの原点を示して見せたような出来事だと思いました。
計画停電で「暗くてよく見えない…」なんて一瞬でも思った自分に本当反省。(^^;
人類は言語を得て文字を作り、グーテンベルクが活版印刷を発明し、電信は電話に無線機はラジオやテレビに発展し、今やインターネットの時代です。
人間は言語で考え、言語で話し、言語で記録を残してきました。
「伝える」という事を続けてきた先には、「伝えたい」という思いと「知りたい」という思いが、ただの「情報」を情報以上の価値に出来る「可能性」が示されたのではないでしょうか。

そして、こちらは現代っ子たちの「ジャーナリズム」。

トモダチからのARIGATO

孤立した避難所の発見と補給、仙台空港の復旧、仙石線の瓦礫・汚泥の撤去などに参加した米軍に、被災者が送ったメッセージ。

「トモダチ作戦」に参加したトス空軍大佐(嘉手納基地所属)が15日、ワシントンの記者団と電話で会見。
仙台空港上空を飛行中、浜辺で木を並べた「ARIGATO(アリガトー)」の文字に気付き、日本人の感謝の心に感動したと振り返った。
大差は3月16日早朝から仙台空港の復旧に自衛隊と共に着手。同20日には輸送機が着陸出来る状態まで復旧させた。
「ARIGATO」を目にしたのは、任務終了間際の4月3日。
米軍機で同空港に着陸しようとした際、長さ数メートルの木を滑走路近くの浜辺まで引きずっていく人が見えたという。
文字は着陸時にしか見えない場所だったといい、大佐は
「苦境にあって懸命に働いている人たちが、我々に感謝を伝えようと時間を割いてくれた。逆に日本人への感謝がこみ上げた」と語った。
(朝日新聞2011/4/17)

国同士だと打算が働いて疑心暗鬼になりがちですが、人同士だとお互いを血の通った人間として見やすいから不思議です。
政府や軍上層部には対日要望やら世界戦略やらがあると思われますが、現場レベルでは一兵士、一個人として何か感じる処があれば良いなと、つい期待してしまいます。(笑)

かつて、戦後アメリカきっての外交官キッシンジャー氏は「国家に真の友人はいない」と言いました。
ですが、こういう草の根の交流から育てていくものが、将来の「友達」を作っていくのだとも思います。
何の努力もしないで最初から「無理だ」と諦めるのは、あまりに怠惰ではないでしょうか。

政治家の挑発的な発言や軍の姑息なやらせやマスコミの扇動的な偏重報道など、民間交流の努力を尽く無に帰してきた妨害に負けないよう、目の前にいる「人」としっかり向き合っていきたいです。